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IQ.300 の男「ノイマン part-2」 [人物]

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ノイマンは1903年12月28日ハンガリーのブタペストで生まれた。彼の父は銀行家であった。 家庭は裕福で,早くから特殊教育をうけた。
第1次世界大戦がはじまったとき、かれはギムナジュムにはいった。ここの数学の先生はノイマンの才能をみとめ, ギムナジュムの数学だけをやっていては,ノイマンの能力がつぶされてしまうことをノイマンの父に話した。 父は当時のブタペスト大学の教授であった代数学者のクルシャクに相談したかれの推せんで助手のフェケテ (1886-1957) ノイマンの家庭教師になり、 数学を教えた。
ノイマンの才能はすばらしく,まもなくフェケテといっしょに最初の論文をつくった。このときノイマンはまだ18歳になっていなかった。これは1922年ドイツの数学雑誌に発表された. その内容は多項式についてのものであった。 1921年ノイマンはブタペスト大学にはいったが,在学中の4年間は, スイスのチューリッヒとドイツのベルリンで過ごし、そこの大学で研究した。 ノイマンはチューリッヒ工科大学で有名な数学者ワイル (1885-1955)やボーヤ (1887-1985) に接した. ノイマンはワイルが不在中、ワイルにかわって教えたこともあった。 1926年, ノイマンは集合論の公理化の論文でブタペスト大学から学位をとった。その翌年ベルリン大学講師になった。すでにノイマンの集合論についての仕事は有名になっていた。

1927年から 1929年までのベルリン時代に, ノイマンは集合論とともにヒルベルトや物理学者のウィグナーなどとともに量子力学の研究をして, 論文を書いた. 1929年ノイマンは移った。

集合論とともにヒルベルトや物理学者のウィグナーなどとともに量子力学の研究をして、論文を書いた。1929ノイマンはハンブルグ大学へ移った。
1930年アメリカのプリンストン大学からむかえられ、それ以来アメリカで住むようになり, 1933年プリンストンの高等学術研究所の教授になった。この研究所はそのご多くの数学者が訪問し,フランスのパリとともに世界数学界の中心的な地位をたもつようになった。 ノイマンは第2次世界大戦になったとき,アメリカ政府のいろいろな科学研究に参加し, 大きな貢献をした。 1954年10月, ノイマンはアメリカ原子力委員に任命された.

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