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フーリエ その2 [人物]

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フーリエは恐怖政治の間,オークゼルにかえり,革命運動に身を投じていた。ナポレオンの時代になり,1794年に設立された高等工芸学校へ,モンジュの紹介で就職した。ナポレオンの要請で, 1798年,モンジュとともにナポレオンのエジプト遠征に,文化関係の仕事の一員として従軍した。この間エジプトの学校で,かれ得意の方程式の数値解法について講義した.フーリエはその後,エジプトについて書いた著作を出したが,これは考古学上の傑作といわれている。
帰国後、フーリエは1802 年にイゼール県の知事に任命された、かれはグルノーブルからイタリアのトリノへ新しい道路をつくったり,学校教育の改革をやったりして行政的手腕をふるった。1808年ナポレオンはかれを1807 年フーリエは知事の時代に熱の解析的理論に関する論文をつくった。このなかで方程式で書かれたつながっている曲線 y=f(x)はどんな部分をとってみてる男子にした。1815 年,エルバ島を脱出したナポレオンがグルノーブルを落したとき,フーリエもつかまった。
それからナボレオンの百日天下が続いたが,王政復古のとき,フーリエはバリに移住した。友達の紹介でセー3県の統計局長に任命された。1816 年,学士院はフーリエを会員に選挙したが、ブルボン政権はこれを拒否した。しかし翌年会員になった。フーリエはその後, 若い数学者の指導にあたった。なかでもパリ留学中のディリクレ (1805_59) はしばしばフーリエをたずねた。ディリクレの解析学上の仕事に大きな影響を与えたようである。
1807 年フーリエは知事の時代に熱の解析的理論に関する論文をつくった。このなかで方程式で書かれたつながっている曲線 y=f(x) は どんな部分をとってみても
ao/+Σ2 (an cos nx+bm sin nx)
とかかれることを示した。ここで係数 an,bnは

フーリエ画像.png

で与えられる。上の級数はフーリエ級数とよばれ,係数は今日フーリエ係数とよばれている。フリーハンドでかいたオイラーの意味の曲線がフーリエ級数で表わされることがわかった。フーリエの理論を厳密にする研究はディリクレにうけつがれた。。
また今日つかっている定積分の記号

インテグラf(x)dx
はフーリエが考え出したものでそれ以来ひろく使われ出した。
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