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ド・モルガン [人物]

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ド・モルガン
生誕 1806年6月27日
東インド会社の旗 東インド会社統治(英語版) マドゥライ
死没 1871年3月18日(64歳没)
イギリス ロンドン
研究分野 数学、論理学
研究機関 ユニヴァーシティ・カレッジ
出身校 トリニティ・カレッジ
ケンブリッジ大学
主な業績 ド・モルガンの法則
関係代数
普遍代数
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ド・モルガンの法則
「AでしかもB」というのと、「AかまたはB」というのが論理の基礎になることは、今では常識的なように思われている。しかし、「メガネをかけた女の子」ならわかるが「メガネをかけているかまたは女の子であるような人間」なんてものが想像できるか。これは、スコラ期のわずかな例外を除いて考えられもしなかった。
これは、次のようにすれば想像はできる。憲法がかえられ徴兵制がしかれ、みなベトナムへ派兵される。ただどういうわけか、メガネをかけたのはダメ、女の子もダメ、ということになると銃後に残るのは、それは「メガネをかけていない男の子」以外になる。
集合でいえば、Aの補集合をc(A)とでも書けば
c(AUB)=c(A)nc(B),c(AnB)=c(A)Uc(B)になる。これが゛ド・モルガンの法則゛だが、どうしてこんなことが問題になったのだろう。

Bパースの子C.Sパースのような記号論理学のものを読むと、スコットランド派論理学というものが目の敵にされている。スコットランド派なんて、今ではあまり名も聞かないが、ハミルトンなんてのがいたらしい。「すべての」「ある」といった量称について明示的に論じたという功はあるらしい。奇妙に彼は数学に対して敵意を持っていた。

例---------------------------------------------------------------------
「私の身長は 160 cm 以上であり、かつ私の体重は 50 kg 以上」である
の否定

「私の身長は 160 cm 以上であり、かつ私の体重は 50 kg 以上」ではない
の真偽が、次の命題と等しいことを、ド・モルガンの法則は主張している。

「私の身長は 160 cm 未満であるか、または私の体重は 50 kg 未満」である
同じようにして

「このボールは青いか、または赤い」
の否定は

「このボールは青くもないし赤くもない」
になる。
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ゲーデルの数学的功績 [人物]

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ゲーデルの完全性の定理
「ゲーデルの完全性の定理」は一口で言うならば、現在知られている論理学の法則以外に正しい新しい法則がない、すなわち現在知られている論理学の法則によって論理学はすでに完成されているということを意味している。これは現在われわれの論理が、われわれが正しいと信じるのみならず、絶対的な確定的な性格をもっていることを示した点で重大である。

ゲーデルの不完全性定理
さらに、「ゲーデルの不完全性定理」というのがあり、この定理は現在よく用いられる自然数についてのペアノの公理系が不完全であることを意味している。オッペンハイマーによればゲーデルの仕事は数学的議論の論理的構造をはかりしれぬほど深め、豊かにしたのみならず、人間の理性一般における限界というものの役割りを明らかに示した。という事であり人間の論理的思考についての最も深い考察として広く一般に通用しているものである。

矛盾した定理
ゲーデルの完全性定理とゲーデルの不完全性定理という二つの名前の上では矛盾した定理が、数理論理学をしっかりと支えて学問としての形をあたえているような印象をうけたものである。数理論理学の口頭試問で、まずゲーデルの完全性定理について述べなさいと質問し、それからゲーデルの不完全性定理について述べなさいと続けて、どうして完全性定理と不完全性定理は矛盾しないのですか。と尋ねる教授がいます。

彼は外人には珍しく日本人と比べても小柄で、菜食主義者である。アメリカに永く住んでいる人には珍しく自動車の運転はしない。実はゲーデルは運転免許はとったことがある。ところでその免許をとったその日のうちに、車を木にぶつけてしまった。それからゲーデルは二度と運転しなかったとのことである。

特に不完全性定理の業績はその後ますますその真価を発揮して脚光を浴びている。
ゲーデルは1978.1.14 にプリンストンで亡くなった。
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第1不完全性定理
自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
第2不完全性定理
自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。
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ABC予想 [人物]

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望月新一 教授

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数論における重要な未解決問題として知られるABC予想を、自身の構築した宇宙際タイヒミュラー理論(英語版)を用いて証明した人物。

※学者によると、このことはノーベル賞数個分の価値ある証明だといわれています。
日本人数学者という点でも素晴らしい快挙だと思います。乾杯。

plofil
望月新一

日本の数学者。京都大学数理解析研究所教授。専門は数論幾何学、遠アーベル幾何学。 東京都出身、本籍は世田谷区。
生年月日:1969年3月29日

中学生(筑波大学附属駒場中学校)時代に1年間日本へ戻った以外は、アメリカで育つ。
フィリップス・エクセター・アカデミーに2年間在学し、16歳でプリンストン大学へ進学。19歳で学士課程を卒業(次席)。23歳で博士課程を修了しPh.D.を取得。

日本へ帰国後は京都大学に採用され、助手(23歳)、同助教授(27歳)を経て、同教授(32歳)に昇格。

主な業績 数論幾何学
遠アーベル幾何学
宇宙際タイヒミュラー理論(英語版)の構築
ABC予想の証明
主な受賞歴 日本数学会秋季賞(1997年)
日本学術振興会日本学術振興会賞(2005年)
日本学士院日本学士院学術奨励賞(2005年)
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谷山 豊 その2 [人物]

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現在の東大では、数学の教官は大学院が本務で学部は併任であり、大学院の講義がたくさん開講されていて、学部の上級生はそれを聴講できるようになっている。これに対して旧制の大学院では講義はまったくなかった。聞くことができたのは、数学のごく基礎的な部分の講義だけであった。
53年3月谷山は数学科を卒業した。

卒業して大学院に入った谷山は、特別研究生に採用された。特研生になれば、何年か研究に専念する経済的保証が与えられるので、研究者の卵にとって有難い制度であった。こうして谷山は、研究生活に入ったのである。

54年9月谷山は理学部の助手となった。特研生の給費は大学に就職したので返さなくてよいと考えていた谷山は、特研生だった期間が短いので返済する必要があると知り、驚いて交渉したが、返済を一時猶予してもらうことしかできなかった。

55年12月 東大教養学部講師となった。微積分の講義で、微分より積分を前にやることにしたといっていたことがあり、対数関数や逆三角関数を積分で定義することができて、初等関数の理論を解析的に展開することが可能になると論じている。

58年11月に自らの命を絶つのですが、彼の遺書の冒頭は次の様でした。
「昨日までこうする明確な意思があったわけではない。ただ、最近かなり疲れて神経もかなり参っていることに気付いていた人は少なくないと思う。原因については明確な事は自分でもよくわからない。何かある特定の結果ではない。ただ気分的に言えることは将来に対する自信を失ったということ。これが一種の背信行為であることは否定できないが、今までわがままを通してきたついでに、最後のわがままとして許してほしい。」

彼は天才だと思うのですが、私には理解しがたい何かがあるのだと思わざる得ません。
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偉人から興味を持つ方法 [人物]

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偉人から興味を持つ方法について
ある科目が好きになるきっかけとして、偉人の伝記や研究に触れてみたからという理由の場合があります。人それぞれなので、たまたま気持ちに訴えてくる時は何かがあります。
私は数学が好きなのですが、高校時代くらいに彼の生い立ちや研究を読んでからその傾向が強まりました。そういう意味で彼の存在は貴重です。少し紹介したいと思います。

谷山 豊
谷山 豊は1927年11月12日、埼玉県騎西町で生まれる。
「騎西町は私の父の住んでいた町で今は加須に合併しています。電車の駅が無いので不便です。」
小学校は騎西小、中学は騎西にないので隣の加須の不動岡中学へ4キロの道を自転車で通学した。1940年学科試験がなくなり体育の試験と面接だけになった。谷山は補欠で入学。体が弱く欠席がちだった。1945年浦和高校に入学。翌年4月発熱、肺浸潤と診断される。1年間休学の後復学したが授業には出ず試験だけ受けて2学年を終了した。
「授業に出ずに試験だけで進級するのは大変だと思います。よほど優秀だったのでしょうか。」
翌年手術をうける。夏休みに病気が再発し自宅で療養した。そして浦和高校を卒業した。そして東大理学部数学科に入学した。こうして谷山は高校時代は闘病に費やした。回復できたのは幸運であった。

当時は旧制であった。現在とは異なり、小学校6年、中学5年、高校3年で、中学4年で高校は受験できた。東大数学科は3年間で9科目に合格すれば卒業できた。
谷山は1年の時にバーコフ「束論」、ヴェイユ「位相群上の積分とその応用」11月からはワイル「典型群-その不変式と表現」12月からトゥーキイ「トポロジーにおける収束と一様性」翌年シュヴァレー「リー群論Ⅰ」ある時教授がジーゲルのシンプレクティック幾何の話をして、ジーゲル空間の測地線を求める問題を出した事があった。このような計算は誰もやったことがなかったのだが、これを解いたのが谷山だった。こうして谷山は同級生の誰からも一目置かれるようになった。
続きはまたしたいと思います。

谷山は58年11月17日に自らの命を絶っています。10月に婚約していて、12月には婚約者が谷山の後を追って亡くなっています。
その辺の謎についても回を改めて書きたいと思います。


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