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「リーマン予想」黒川信重教授の取り組み [人物]

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黒川教授授業風景

数学の未解決問題「リーマン予想」は、三つの世紀にまたがって人類の挑戦を阻み続けている。日本人でそれに50年以上取り組んでいるのが数学者の黒川信重・東工大名誉教授(68)だ。
 
 「予想が出されて161年経つが、証明に挑んだあらゆる数学者が失敗している。まさに最難関の問題だ」。黒川さんがそう語るのが、ドイツ人数学者ベルンハルト・リーマンが1859年に提唱した、素数の振る舞いに関する「リーマン予想」だ。
 素数とは、2、3、5、7、11、13……のように、自分自身と1以外で割り切れない1より大きい整数。全ての整数は素因数分解されるので、素数は「数の原子」とも呼ばれる。この素数の振る舞いは実に不規則で、それを利用してクレジットカード情報や機密データの保護に「暗号」として使われている。
 確かに素数の分布は不規則だが、そこに何かパターンが潜んでいるかもしれない。「個々の素数はランダムに見えるが、素数全体をみると調和している。リーマン予想の本質はそこにある」と黒川さんは語る。

予想の土台を築いた天才数学者・オイラーは「素数列に潜むであろう規則性を探る数学者の努力は空しく、この問題は人類には到達しえない謎のように思われる」と語る一方で、
 (自然数全体に関する和)=(素数全体に関する積)
と表せることを見抜いた。リーマンはこの式を複素数に拡張して「ゼータ(ζ)関数」と名付け、ζ(s)=0となるような複素数sは、実質的には実数の部分が1/2になるものしかない、と予想した。
 これが証明できれば、ある数以下の素数はおよそ何個あるか定式化できることにつながる。
 米クレイ数学研究所は2000年、七つの数学未解決問題をあげ、リーマン予想に100万ドルの懸賞金をかけたが、いまだに賞金を手にした者はいない。

 10年前、黒川さんはリーマン予想解決まで「8合目」だと語っていた。現在は最高峰に迫っているのか

今でも「リーマン予想」問題を研究している数学者は多々いると聞きます。黒川教授とともに期待したい。

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abc予想 望月証明 その後 [人物]

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●望月博士の証明
2012年8月30日。インターネットに突然、abc予想を証明したとする論文が掲載されました。タイトルは「宇宙際タイヒミューラー理論」。著者はアメリカをあとにし、日本での研究生活を選んだ望月新一博士。数学界は驚きと興奮に包まれます。
その内容は、多くの数学者をとまどわせるものでした。数学全体を「宇宙」と呼ぶだけでなく、「劇場」「エイリアン」などといった、聞いたこともない単語が並ぶ数学理論だったのです。それは、いわば、かけ算だけが成立する世界を作って、たし算と切り離し、その世界を出発点に、たし算とかけ算にまつわる難問、abc予想の証明にたどりつこうという、これまでになかったアプローチだったのです。

2020年4月。「abc予想」と呼ばれる数学の重要な未解決問題を、日本人が証明したというニュースが駆けめぐりました。論文を書いたのは、京都大学数理解析研究所教授望月新一博士。世界的天才として知られてきた人物です。望月博士は、数学者がこれまで敬遠してきた、ある種の矛盾するような論理をも試そうとしたというのです。さらに、「異なるものを同じと見なす」という、現代数学が掲げるあの原理原則をも見直そうと考え始めました。

●猛烈な異義を唱える学者現る
賛同する学者もいる中、猛烈に異義を唱える学者が現れました。論文の査読が完了してもなお、それが誤りだと捉える数学者が残るという、異常事態となってしまいました。

・アデレード大学 助教 デイビッド・ロバーツ 博士「望月の理論で奇妙なのは、まず全く同じものだといいながら、次に、それらを完全に異なるものとして扱う点です。数学では同じと見なせるものは同じとするのが原理原則です。同じでありながら同時に異なるものなんてありえるのか、真剣に考えてみましたよ。いやいや、絶対無理ですよね」
・デュピー 博士「こんな感じの違和感です。誰かがあるものを持っていて、『それはこれと同じものでもあるし、また同時に異なるものでもある』といったときのような。多くの数学者は、それは『2が4と等しい』といっているようなもので、そんなことをいえば、数学は破綻すると反論したんです」

●激論のため直接日本に来日
この状況を打開できないかと一人の数学者が望月博士のもとを訪れました。ボン大学教授ペーター・ショルツ博士(30)。フィールズ賞を受賞したスーパースターでした。来日したショルツ博士が問題にしたのは、やはり望月理論が出発点とした、あの二つの数学世界でした。全く同じものでありながら異なるものとしても扱うという、一見矛盾する論理展開を、どう考えればいいのか。二人の話し合いは、数学がよって立つべき原理原則はどうあるべきなのかを問う、激論へと発展していったのです。

「abc予想はまだ証明されていない」とするショルツ博士に対し、望月博士は「誤解が解けていない」と書き記したのです。


●望月理論はどうなるのか
望月博士が証明を作り上げる過程をみつめてきた加藤文元博士が、数学者同士が理解し合えない今の状況は、現代数学が新しい数学へと飛躍するための何かの準備段階かもしれないという。

論文発表からまもなく10年。今、新たな動きが始まっています。望月理論に未来の数学の姿を見いだしているという若い数学者たちが、ネット上での議論を開始しました。

abc予想を証明したという宇宙際タイヒミューラー理論が、今後世界の数学者に広く受け入れられるかどうか。それはまだ分かりません。しかし、もしこれが新しい数学の夜明けなのであれば、今、史上まれにみる知の大変革を目撃しているといえるのかもしれません。
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フーリエ その2 [人物]

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フーリエは恐怖政治の間,オークゼルにかえり,革命運動に身を投じていた。ナポレオンの時代になり,1794年に設立された高等工芸学校へ,モンジュの紹介で就職した。ナポレオンの要請で, 1798年,モンジュとともにナポレオンのエジプト遠征に,文化関係の仕事の一員として従軍した。この間エジプトの学校で,かれ得意の方程式の数値解法について講義した.フーリエはその後,エジプトについて書いた著作を出したが,これは考古学上の傑作といわれている。
帰国後、フーリエは1802 年にイゼール県の知事に任命された、かれはグルノーブルからイタリアのトリノへ新しい道路をつくったり,学校教育の改革をやったりして行政的手腕をふるった。1808年ナポレオンはかれを1807 年フーリエは知事の時代に熱の解析的理論に関する論文をつくった。このなかで方程式で書かれたつながっている曲線 y=f(x)はどんな部分をとってみてる男子にした。1815 年,エルバ島を脱出したナポレオンがグルノーブルを落したとき,フーリエもつかまった。
それからナボレオンの百日天下が続いたが,王政復古のとき,フーリエはバリに移住した。友達の紹介でセー3県の統計局長に任命された。1816 年,学士院はフーリエを会員に選挙したが、ブルボン政権はこれを拒否した。しかし翌年会員になった。フーリエはその後, 若い数学者の指導にあたった。なかでもパリ留学中のディリクレ (1805_59) はしばしばフーリエをたずねた。ディリクレの解析学上の仕事に大きな影響を与えたようである。
1807 年フーリエは知事の時代に熱の解析的理論に関する論文をつくった。このなかで方程式で書かれたつながっている曲線 y=f(x) は どんな部分をとってみても
ao/+Σ2 (an cos nx+bm sin nx)
とかかれることを示した。ここで係数 an,bnは

フーリエ画像.png

で与えられる。上の級数はフーリエ級数とよばれ,係数は今日フーリエ係数とよばれている。フリーハンドでかいたオイラーの意味の曲線がフーリエ級数で表わされることがわかった。フーリエの理論を厳密にする研究はディリクレにうけつがれた。。
また今日つかっている定積分の記号

インテグラf(x)dx
はフーリエが考え出したものでそれ以来ひろく使われ出した。
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フーリエ [人物]

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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ男爵

生誕 1768年3月21日
Royal Standard of the King of France.svg フランス王国 オセール
死没 1830年5月16日(62歳没)
Flag of the Kingdom of France (1814-1830).svg フランス王国 パリ
研究分野 数学、物理学
研究機関 高等師範学校
エコール・ポリテクニーク
出身校 高等師範学校
指導教員 ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ
博士課程
指導学生 ペーター・グスタフ・ディリクレ
ジョヴァンニ・プラーナ
アンリ・ナビエ
主な業績 フーリエ級数
フーリエ変換
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フーリエはフランスのオークゼルで仕立屋の息子として生れた。8歳のとき孤児となった、かれの性格にほれこんだ婦人の世話で,オークゼルの司教のもとにあずけられた。司教はフーリエを士官学校にいれた。この頃から数学に興味をもちはじめ、一所懸命に数学の勉強をした。かれを知っていた僧侶たちは,フーリエを説きふせて,サン ブノワ修道院にいれた。しかし 1789年に革命がおこり,フーリエは自由になったこの年の 12月,21 歳のときパリに出かけ、パリ科学アカデミーに数値方程式の近似解を計算する方法を論じた論文を提出した。フーリエはこの問題に非常に興味をもち,方程式の解法について,あちこちでしばしば講義した。具体的な解き方とともにフーリエの定理がよく知られている.
まず実係数のn次の代数方程式 f(x)=0 において,任意の実数 C に対して f(c), f'(c), ., fn(c) の符号変化の数を V(c) で表わす。このとき a, b がf(x)=0 の根でなければ,区間(a,b)のなかにあるf(x)=0 の根の個数はV(a)-V(b) かまたはこの数よりも偶数だけすくない、すなわち根の個数は V(a)-V(b)-2a (aは0か正整数)に等しい、このフーリエの定理では,根の個数を正確に求めることはできない、この問題は1829年,スツルム (1803-55) カメリ科学アカデミーに提出した論文で解かれた。スツルムは、f(x)とf'(x)の間にユークリッドの互除法を適用して, f=f'q1-f2,f1=f2p2-f3...,fm-1=fmpmなるf(x),f'(x)f2(x)...,fm(x)をつくった。これをスツルムの鎖という、スッルムは、f(x)=0が実数の重複根をもたないときスツルムの鎖に対するV(a),V(b)をつくれば,(a,b)の間の実根の個数はV(a)-V(b)に等しいことを示した。



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レフ・ポントリャーギン その2 [人物]

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レフ・ポントリャーギン--------------------------------------

1908年9月3日 - 1988年5月3日
ロシアの数学者
1929年にモスクワ大学卒、1935年には物理・数学博士、教授、1938年には位相群論、連続群論を発表した。数々の数学的業績に対してレーニン賞、スターリン賞、ロバチェフスキー賞、ソビエト連邦国家賞、社会主義労働の英雄という称号などを授かった。
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片目の数学者というのはド・モルガンもそうだし、オイラーは最初は片目,のちには両眼が失明したが,若いときから盲いていた数学者というのは異色である。ポントリャーギンの失明したのは 14 歳,爆発事故が原因だった。それ以後、母のタチヤナが彼の眼となって,本を読んだり, ノートを作ったりしたという貧しい家庭でネップ時代,洋服の仕立てをしていたタチヤナは,農家出身でもちろん外国語を知らなかったのだが,息子に本を読んできかせるために学習したという。母も大変だったろうが,盲目の息子はそれ以上に大変だったろう、テンソル解析の公式の添字のツラナリまで覚えたという「抜群の記憶力」が伝えられてはいるが、それは天性のものというよりも盲目の代償に必要としたものだった。ところが,彼がモスクワ大学で学んだのは、II.C. アレクサンドロフについてであり,位相幾何を専攻したものである。それも,代数的色彩よりは幾何的色彩の強く感じられる学派としてであった。「ポントリャーギン面」といわれる奇妙な2次元図形があって,異種のポントリャーギン面の積を作ると,次元にならずに3次元になってしまう。 もっとも,それは, 次射影平面(円板の周を重に結んだようなもの)のシボリ模様を、無数のアバタとしてつけたようなもので,どうせ目があいていても3次元空間内において見ることもできないので、ポントリャーギンの数学的心眼の生みだした超現実世界といえるかもしれない。

一体,視覚の数学におよぼす影響はどういうものだろうか、形式型の数学者と図形型の数学者とがあっていっさい図を書かないで形式の機能的操作的側面にたよっている人もないではないが,たいていは図を書く、むしろ,普通の本には書きにくいような一種のマンガで数学を考えている人が多い。図のかき方に学派のクセがあって,図を見て数学者の経歴をあてる人まであるくらいだ。この点で,たしかにポントリャーギンの本は読みにくいことがないではない、手さぐりで壁づたいに歩いていくような論理のはこびのところがあって、普通なら,遠くを見わたしてから進むところを、近くを杖でたしかめながら順次に進む態度が強いので,少しやりきれない。そういったことが、証明の仕方や理論展開のクセとしてあるようなのだが、これは程度問題では数学者の個性かもしれず、両目のあいた数学者だってポントリャーギン以上に局所型の人もないわけではない。それに、形式型と図形型という分類でいえば、ポントリャーギンはどちらかというと図形型に属する。


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レフ・ポントリャーギン [人物]

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レフ・ポントリャーギン--------------------------------------

1908年9月3日 - 1988年5月3日
ロシアの数学者
1929年にモスクワ大学卒、1935年には物理・数学博士、教授、1938年には位相群論、連続群論を発表した。数々の数学的業績に対してレーニン賞、スターリン賞、ロバチェフスキー賞、ソビエト連邦国家賞、社会主義労働の英雄という称号などを授かった。
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彼の家庭はとても貧しく月謝の安い実験学校さえ行けず、4年制の小学校で最初の教育を受けた。14歳の時にプリムス・ストーブの爆発事故により失明した。そんな彼が数学者となれたのは母親の献身的な努力があったからだと言われている。 農家の主婦だった彼の母親タチヤーナ・アンドリェーエヴナ・ポントリャーギナは、彼が身を立てるための一切の世話を引き受けた。文献を読んで聞かせたり、論文に式を書き込んだり、さらに彼女自身外国語を習得して彼の完全な「秘書」を勤めた。数学者となった彼の専門分野は、幾何学(微分幾何学)だった。


1970 年のニースの国際数学者会議は, ヒッピー族(の数学者)の氾濫で話題をまき,「ネクタイをしめていたのは日本人とインド人だけだった」などとオーバーな報告をする出席者もいたほどだが,そこにちょっとしたハプニングが起こった。盲目の数学者ポントリャーギンの講演が終わったとき,坊主頭にハダシの男が質問に立ちあがった。これぞブールバッキの現役メンバーの中心と目されているグロタンディエクで,核型空間の理論や代数幾何の再編成(前回のフィールズ賞)で有名だが、ハノイへ行ってからすっかり反戦づいて,会議場の入口でも反戦パンフを売っていた。彼の質問というのは、「その研究は戦争のために奉仕するのではないか。」場内は少し緊張したらしいが,ポントリャーギンは見えない眼でニヤリと笑って,「この研究は線型の範囲で,実際には非線型の因子が解明されねば役に立たない」と受け流したという。

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ユークリッド part-2 [人物]

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ギリシャ数学の集大成が1つの理論体系としてまとめられていることは、まことに驚嘆すべきことだ。それで, ユークリッドをプラトン主義者に疑して, ブラトン多面体の完結を理想としたとも見られたが,最近の研究では各巻の数学の源流はある程度独立のようで,各巻の成立順序も一様でないかもしれないとされている。それにしても、 プラトン多面体が重要視されたことはやはり事実だろう。
逆に、プラトン主義というと「観念論」にコンプレックスを持ったり,なんでもプラトン主義とアリストテレス主義に分類したがる向きもあって,作図公準に導される構成について, アリストテレス的経験主義を読みこもうという考えもありうるが,ユークリッドの作図はすべて存在証明としての性格を持ってもいるので,イデアだからこそ存在定理が意味を持ったとも考えられる。一方,この種の構成型の存在定理をュークリッドの特色にする考えもあるが,素数の存在のような間接的な存在証明もあることだし、むしろこちらの方にエレア派の伝統を強調する立場もある。

「改悪」という批判をあえて受けながらの 19 世紀の大衆化版が,現在の中等教育の「ユークリッド幾何」であるが,それすらも,比例線とピタゴラスだけあれば間に合う,なんて言われている.これはデカルトに由来するのだろうが、たしかに, (a,b)を通って (α, β) の方向に平行な直線

x-a/α=y-b/β

には平行線の比例が,(a,b) を通って (α, β) の方向に
直交する直線

α(x-a)+β(Y-b)=0

には内積型のピタゴラスが使われているにすぎない。
この点では,私はプトレマイオス王を支持する。数学ではつねに「王道」が求められるべきであって,『原論』 13 巻を読んでからでなければ数学をやれないのなら、たいていは数学なんてヤーメタということになるだろう。デカルトは一種の「王道」を示したのだが, ユークリッドの時代には,いかに神権的な王であろうとグラマーな女王であろうと,その「王道がなかった」こと
冷厳な事実である。

個別的な業績については,現代の人間から見てすばらしく思えるのは,第7巻から第9巻へかけての数論の方ではなかろうか。私には,むしろこの方が古さを感じさせない。

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ユークリッド [人物]

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近年ユークリッドの『原論』の全訳が出たが,私には到底読みとおせそうもない、第 13 巻の最後の,球に内接する5つの正多面体の比較なんてのは、すごく難しそうだ、昔は、「最高学府」の大学ではこれを原典どおりにやってたそうだから、オレタチもいっちょやろかなどと、「悪いジョーダン」を言う奴もいたが,そうすればおそらく皆と同じように、第1巻の最後のピタゴラスの定理あたりまでに1年ぐらいかかってしまうのではないだろうか。

ユークリッドという人物もまたわからない。プロクロス(5世紀)の頃にはギリシャ幾何学もすっかり注釈学になりさがっていたのだが,そのプロクロスの言うことには、ユークリッドはプトレマイオス1世と同時代人であったらしい。なぜなら、王がもっと安直に幾何学を理解できないかとたずねたとき、「幾何学には王道はございません」と答えた、という「伝説」があるからだ。もっとも、注釈学者というものも信用できる点があって,プロクロスがそう言っているぐらいだから,あとから伝えられた伝説はすべて後世のデッチアゲだろうと断定できる、ユークリッドのおじいさんについて語っている,アラビア人の伝承はインチキに相違ない、ユークリッドの『原論」とは言うがじつはユークリッドが作ったものではなくて,「アポロニウスという名の大工」が作ったのだ,なんてのは話をおもしろくするためだけのものだ
ろう。

要するに, ユークリッドという人物については,ほとんど信用できない、その点はユークリッドの肖像もそうで,これに関しては、子ども向きの本だが村田全の『数学をきずいた人々』には、西郷隆盛の銅像と比較したおもしろい考察が書いてある。だいたいが,プトレマイオスのアレキサンドリア王国というものが,ギリシャ知性主義とエジプト神秘主義をたして2でわったようなもので、王はなかば神だから近親相姦で, クレオパトラは弟の王と夫婦でシーザーやアントニウスともイチャツいて,ついにはマムシにかまれて死ぬという次第、今でもミイラを掘るとたたりがあり、ぼくはユークリッドの悪口をいうと良くないことが起きるそうだ。
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ガウス part-2 [人物]

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彼は、1795年3月に2次剰余の相互法則を発見し、それを帰納法によって証明した。
1795年10月にゲッチンゲン大学に入学した。そのころ彼は数学者になるか言語学者になるか定めかねていた。1796年3月彼は正17角形の作図法を発見して、数学者になる決心をした。
1799年7月にヘルムシュテット大学で哲学博士の学位を受けたが、論文はふつう代数学の基本定理といわれるものであった。つまり「複素数を係数とする代数方程式は複素数の根をもつ」というものである。彼の最大の業績である『整数論研究』は1801 年にライプキットで出版された。それは整数に関する以前の散発的な研究を体系化して、1つの学問分野として確立したのであった。

そこで重要な役割を演じたのは合同式
a=b (mod n)であった。それは a-bがnで割り切れることを記号化したものである。
それにつづいて,天体力学の研究がはじまる。そのとき1つの小遊星が発見され、その動道鉄定が大きな問題となっていたからである。
しだいに高まっていく名声は世界的になり,1802年にはロシアのアカデミーの通信会員に任せられる。
1807 年にガウスはゲッチンゲン大学の天文学を愛と
新しい天文台の台長に任命される。 死ぬまでそこに留ま
った。
その後、誤差法もしくは正規分布や最小2乗法の研究がはじまった。
また測地学の研究がはじまる。このことからはじまって曲面論の研究に手をつける。いわゆるガウスの座標を基本形式がここで発見される。さらに進んでガラスの率が発見され、今日の微分幾何学の礎石がおかれた。
ここから非ユークリッド幾何学への通路が見えてることになった。それは一般的にガウス曲率が定装となるような曲面上の幾何学としてとらえられるようになった。
また複素関数論では楕円積分から今日の代を装着の
萌芽が生まれた。

物理学では地磁気の研究から磁気の理論の基礎がおかれた。彼は長命であり、おのれのもっていた才能を完全に開花させることのできた点では幸運であった。

数学のあらゆる分野に手をのばし、各々の分野で最高の業績をあげた。質量ともにガウスに匹敵する仕事をなしとげた人は,彼の前にも,またその後にもまだ現われていない。
彼はどちらかというと古典的ではあったが,広い文化的趣味をもち,モンテーニュ, ルソー,ポルテール,モンテスキュー,ボアローなどを愛読した。しかしゲーテは全作品を読んではいたが,あまり高く評価しなかった。同時代に生きていたのにゲーテに会ったことはなかった。シラーは大嫌いであった。
彼はシェークスピアの悲劇は悲惨すぎて読めないと言っていた。彼はどちらかというとハッピー・エンドを喜ぶ素朴な読者だった。
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ガウス [人物]

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ガウス
Carl Friedrich Gauss

アルキメデス、ニュートンとならんで、有史以来最高の数学者といわれるこの人は、1777年4月30日ドイツ(現在は西ドイツ)のブラウンシュワイクに生まれる。

ガウスは言葉を満足に話せるようになる前から、誰から学ぶこともなく計算ができたといわれている。彼がまだ3歳になるかならないかの頃、父親が職人達に支払う給料の計算をしていた時、彼は父親の計算が間違っていることを傍から指摘した。父親が驚いて計算をやり直したところ、息子が指摘した通りであったという。また酒樽の体積を求めるにはそれをスライスした面の面積を調べて積み重ねればよい、という積分の概念にも自力で到達していた。

7歳の時、小学校に入って、先生はJ.Gピュットナーという人であった。教室は天井が低く、先生は棒を手にもって歩き回っている。教室には100人近くの生徒が詰め込まれていたるそのころ棒を使うことは勉強や訓練のため最良の教育的手段あった。

10歳の時先生が次のような問題を出した。
「1~100までの数を書いて、それを足して答えを出しなさい。」先生はしばらく息をつきたいと思って、この問題を出したのだが、そうはいかなかった。数秒後にガウスは石版を机に置いて「できました」といった。他の子が汗を出して苦しんでいるのに、ガウスは涼しい顔をしてすわっていた。先生は疑わしそうにガウスを見た。ガウスの答えは5050であった。ガウスは計算の理由を説明した。それはつぎのようなものであった。

101が100だけあるから 101×100=10100、
それを2で割ると、10100÷2=5050 になる。

すっかり驚いてしまった先生は、自分には教えるものは何もないと考え、ハンブルグから算数の本をとりよせて、ガウスに与えた。あとでガウスは18歳のバーテルス先生と知り合いになった。この先生はガウスの天才を認めた最初の人であった。彼は後で数学の教授になった。
しかしガウスの父は2人の息子が家の職業をつぐように望んだ。高等教育を受けさせるだけの学費がだせるかどうか自信がなかったのである。
しかし、二人の先生は有力な保護者が現れるだろうと信じていた。1,788年にガウスは父の希望に反して、中学から高校に入り、そこで、ブラウンシュワイク公の保護を受けることになった。

学生時代に彼は素数分布の問題を研究し、整数nより小さな素数の個数はn/log n に近いことを予想した。
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国籍 ドイツ
研究分野 数学
物理
研究機関 ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン
出身校 ヘルムシュテット大学(英語版)
博士課程
指導教員 Johann Friedrich Pfaff
1989年から2001年まで使われた10ドイツマルク紙幣にはガウスの肖像画がガウス分布の図、式とともに描かれていた。
2002年、国際数学連合とドイツ数学会はガウスの事跡を記念してガウス賞を創設した。
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